秋山郷 平成26年8月5~6日 谷路会員 30年ほど前に栃材の素朴な手作りのこね鉢を買ったがそれが“秘境秋山郷”で作られた物であり気になっていた。金沢の暑さから逃れ山中で1泊したく小さな旅に出る。 |
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秋山郷の入り口、家2軒の清水川原を通り猿飛橋を左岸へ渡り坂道を登り結東、前倉を過ぎて渓谷に架かる前倉橋を右岸へ渡り大赤沢へ出る。 ここの集落は川床から離れ山際のゆるやかな傾斜地につくられている。 上野原のキャンプ場は子供たちで満杯。 栃の原温泉に向かいひだまり温泉ヒュッテの管理人に使用料を払い林間のサイトにテントを張る。 向かいの鳥甲山が荒々しく屏風のように山並みが連なる。宿のおばさんは群馬県の出身と聞く。 ヒュッテの前のブナの木に3匹の子犬が繋がれてじゃれあっている。 同行のOさんは最近愛犬を亡くしたばかり、かわいい子犬を見て心を動かされているが年齢のことを考えてもう飼えないよと子犬たちに言い聞かせる。 |
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切明温泉にゆく。3か所の宿泊施設がある。川に近い切明リバーサイドハウスの立ち寄り湯に入る。 露天風呂につかり渓谷風景を楽しむ。上流は右に雑魚川、左は魚野川が出合う。 魚野川に吊橋が架かりその向こうに発電所が見える。鈴木牧之が泊まった湯宿はそのあたりにあったらしい。 “秋山記行”は190年前の過酷な自然の中で生きる秋山郷の人々の貴重な記録でもある。 1828年10月半ば牧之58歳、塩沢の桶屋の団蔵を道案内に念願の秋山郷を訪れた。 切明は秋山郷の最奥部になり湯守夫婦と子供の3人が住んでいた。 折よく秋田マタギが来ていることを知り彼らの話を聞くべくもう一晩泊まった。 夜若いマタギの一人から谷の地形、狩りの方法、イワナを捕り草津温泉まで売りに行く険しい道筋、川沿いの仮小屋のことなどを聞き記録した。 吊り橋を渡る。牧之が来た頃は10mほどの川幅に細い丸木が2本架けてあり肝を冷やして渡ったとある。 魚野川上流へ少し歩くと川原に温泉が涌き出している。石で囲った露天風呂に川水を導き温度を調整しているがかなり熱い。 川の近くそこかしこに手掘りの小さな浴槽が見え各自入浴を楽しんでいるようだ。 牧之が訪ねたころは開湯20年ばかり、温泉はこの近くにあったのだろう。人気のない紅葉の盛り、厳しい寒さのなかで暑い湯につかり命の洗濯をしているような気分とある。 自分も高齢になり明日はお迎えが来るかもしれない、これがこの世の最後の入浴になるやもしれぬと思いつつ長湯をした。 牧之はそれから15年生きた。 キャンプ場にもどる。気温は23度、快適な空気のなかで簡単な夕食を済ませ早々にテントに入る。 朝6時起床、朝食をとりテントをたたみキャンプ場を離れる。先ずは和山集落を見る。 斜面に散らばる小さな集落の家の前に老人たちが数人見える。 ここも民宿の看板があり特産の栃の木鉢を作っていたようだがいずこの山村もおなじく住人の高齢化で制作はしてないようだ。 川の近くまで下り和山温泉と川床を見て集落にもどり十二神社の小さな社を参拝して幹線道路にもどる。 |
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川を渡り対岸の屋敷集落へゆく。集落の上の展望のよい空き地から苗場山を眺める。 背後の布岩の柱状節理の岩壁が迫る。集落を散策、洗濯物を竿にかけている爺様に話を聞く。 ここは戸数35、うち30軒は山田性、あなたもそうかと問うと自分は山本、津南から来たという。 秋山郷発祥の地大秋山集落跡を訪ねる。天明の飢饉で食物がなく8軒の住人はすべて餓死したとある。 平家の落人伝説を偲ばすゆかりの品も食糧に替えたらしい。 牧之が訪ねたころは一望茅原でキリギリスが草鞋のふみ場所もないくらい飛び、その鳴声は平家の落人の魂かと思ったとある。 今は戦後あたりから盛んに植林された杉が育ち木陰のわずかな空き地に案内板があり石碑や墓がうずくまっている。 屋敷の村人が道の草刈りや法要を営んでいる。 |
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橋を右岸に渡り小赤沢集落に入る。 苗場山神社を参拝、民俗資料館、郵便局、保育所を併設した秋山総合センター“とねんぼに”入り展示を見て道路下のかやぶき屋根の保存民家を見学。 飢饉で全滅した大秋山、甘酒、矢櫃の集落やその当時の状況が展示され厳しい山村集落の生活が偲ばれる。 この土地で生きてきた人々の営みに何か荘厳さを感ずる。 大赤沢から前倉橋を渡り左岸へ再び猿飛橋を渡り清水川原で秋山郷と別れ津南町へ、353号線12峠トンネルを越えて南魚沼市塩沢、鈴木牧之記念館を訪ねる。 記念館は木造伝統工法の堅固な建築で牧之の資料が並び見応えがある。 家業に精勤し質素倹約、余暇に俳句や漢詩、絵を楽しみ文章を書いた。筆まめな人である。 江戸時代後期、200年続いた平和と商品経済の隆盛が日本各地に多様な面白い町人たちを輩出した。 “北越雪譜”は雪深い越後の自然や人々の暮らし、産物、奇談など興味深い読み物となっている。 記念館で英訳、ドイツ語訳もありどんな人が翻訳されたのかなと思っていたが家に帰って1週間後日本山岳会年報“山岳”が送られて来た。そこに翻訳者ローゼ・レッサーのことが詳しく載っている。20代のはじめ頃来日、アイヌの人たちに会った北海道旅行の帰り青函連絡船のなかで京都大学の植物学の高橋健治氏と知り合い結婚、夫君が亡くなられてから英語、ドイツ語などを教えて生計を立てる傍らモア・ジョイ会を創られ多くの人たちを育てた。 越後湯沢の宿屋の主人から岩波版を贈られ雪国に生きる人々への共感、尊敬が異文化圏の人々にも知ってほしいと決心され忙しい仕事の合間に翻訳作業を続けられた。出版まで40年、牧之の北越雪譜出版とおなじくらいかかった。 数年前ローゼ没後10年を記念してゆかりの人たちが語る会を設けられその折の記録である。 素晴らしいドイツ女性がいたことを初めて知る。歳をとると知らないことが多い。 |
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